2015.03.25 02:21|書籍紹介
霊性進化の道―ホワイト・イーグルの霊示霊性進化の道―ホワイト・イーグルの霊示
(2003/11)
グレース クック

商品詳細を見る


ホワイト・イーグルの霊言は,1930年代から,グレース・クックを霊媒として通信が始まり,1979年にグレース・クックが他界するまで約50年間にわたり続きました。

シルバーバーチの霊訓が,1920年代から,霊媒であるバーバネルが他界する1981年までの間に通信されたものであることからすると,ほぼ同じ時期に通信されたものといえます。

シルバーバーチは,ホワイト・イーグルのことを同志と呼んでいて,ホワイト・イーグルも高級霊であることが窺われます。

最初,ホワイト・イーグルの霊訓を読んだとき,感銘を受ける部分もありましたが,訳者が近藤さんでないということもあり,何か読みにくさを感じていました(~_~;)

何で読みにくいんだろうと考えてみたとき,英語の語順のまま訳していると思われる部分があることが1つの原因である気がしました(私は学生のとき以来,英語にほとんど触れていないので,以下の指摘は的外れかもしれません。)。

たとえば,「心に思いなさい,自分の傍に,いま自分を助けようとしてくれている人がいることを。」(本書78頁)という訳文は,「自分の傍に,いま自分を助けようとしてくれている人がいることを,心に思いなさい。」という語順の方が,日本語の語順としてしっくりきます。

もちろん倒置法で強調するというのがあるかもしれませんが,倒置的表現が多い気がします。

また,「つまり真の愛にあれば,神の子等は1つとなり,誰1人他から分離しているものは存在しないから。しかしこれは難しいことである。と申すのは,皆さんはかように主張するから,つまり,人間の生活では愛というものは個人に向けられるものであると。」(本書111頁)という訳文は,明らかに読みづらい気がします。

これらに限らず,英語の語順(SVO,SVC)のまま訳して,日本語の語順(SOV,SCV)に直していないと思われるところがあります(このあたりは英語に詳しい方に一度聞いてみたいですが。)。

これは訳者の好みなのかもしれませんが,私にはしっくりきませんでした。

ただ,内容的には,シルバーバーチの霊訓に通じるような,高級霊からの霊示らしいものであり,勉強になるところが色々あります。

たとえば,守護霊についての以下の部分は,感銘を受けます。

「もしヴェールがはずされることがあるとすれば,皆さんは感謝と至福の思いに満たされよう。神のみ力により,神意に従って,これら霊の縁者達が,皆さんの傍に皆さんの向上のために,ピタリと寄り添っているのを知りえて,信じられんことを。その温かい抱擁,肩に置かれた手,その知らぬことなき理解,これらを感じられるように。霊師である守護霊は,皆さんの中にある望みと苦しみのすべてを知りぬいている。また,貴方が貴方を愛するよりも深く,貴方を愛している。守護霊はどんな時にも貴方の傍にある。」(本書74頁)



また,真理を普及するにあたって,下記の点は,参考になります。

「人が健康の原理を吾等に尋ねても,吾等はすぐにそれに答えるとは限らない。吾等はその魂にとり,一番ふさわしい物の考え方を指示するにとどめる。真理を無理に押し付けても,その魂が衝撃から回復するのに手間がかかるばかりで,賢明とは申しかねる。そこで,吾等はその魂が消化し得る程の食物を与えてやる。つまり優しく説いてきかせるわけである。その後を見守る。もしその者が真剣に,その教えに従うようなら,徐々ではあるが目が開かれていく。人を見て法を説く,これが人を助ける道。一人に良いからといって,その真理が万人に良いとは限らぬ。」(本書30頁)

   

これ以外にも,食事や,普段の姿勢,自己充電の方法等,すごく現実的なことにも触れているので,本書を読んで参考なるところは色々とあると思います(^ ^)


スポンサーサイト
2015.03.17 02:31|書籍紹介
私の宗教: ヘレン・ケラー、スウェーデンボルグを語る 《決定版》私の宗教: ヘレン・ケラー、スウェーデンボルグを語る 《決定版》
(2013/12/26)
ヘレン ケラー

商品詳細を見る


目が見えず,耳が聞こえず,話ができないという三重苦を克服した,偉人ヘレン・ケラー。

しかし,そのヘレン・ケラーが,スウェーデンボルグの熱心な信奉者であったということは,この本に出会うまで,全く知りませんでした(>_<)

この本で印象に残ったのは,第8章の「障害は神から与えられた試練」です。

ヘレン・ケラーが,盲・聾・啞の三重苦をどのように受け止めていたのかは,興味が湧くところですが,その点について,ヘレン・ケラーは,次のように述べています。

「私は自分の身体的障害を,どんな意味でも神罰だとか不慮の事故であると思いこんだことは一度もありません。もしそんな考え方をしていたら,私は障害を克服する強さを発揮することはできなかったはずです。」(本書174頁)
「あらゆる種類の障害は,当人がみずからを開発して真の自由を獲得するように勇気づけるための,愛のむちということになります。」(本書175頁)



こうした記述からすれば,ヘレン・ケラーは,自らの障がいを魂を浄化するために必要な試練,鍛錬であると捉えていたことが窺われます。

ただ,自分の障がいを試練であると受けとめることができたとしても,三重苦を実際に克服する強靱な精神力がないと,到底立ち向かうことができないものであったと思います。

小さな苦難でも色々と思い悩んでしまう私からしたら,ヘレン・ケラーが三重苦を克服する強さをどのように身につけたのかは,知りたいところです(^ ^)

本書において,ヘレン・ケラーは,最初の転機として,「WATER」という言葉を理解したときの感動を挙げています。

以下の話は有名な話ですね。

サリヴァン先生が,ヘレン・ケラーにコップを手渡し,その単語を綴り,その後,コップに水を注いで「WATER」と綴りを書きました。

しかし,ヘレン・ケラーは,コップと水を混同してしまい,コップを水と綴り,水をコップと綴ったそうです。

すると,サリヴァン先生は,ヘレン・ケラーをポンプ小屋まで連れて行き,サリヴァン先生がポンプを漕いでいる間,その水をコップで受け取るようにヘレン・ケラーに指示しました。

そして,サリヴァン先生は,空いたほうの手で再び力をこめて「WATER」と書きました。

このときのことについて,ヘレン・ケラーは,以下のように,述べています。

「突然,私の中に不思議な感動が湧きあがりました。おぼろげな意識。遠い記憶のような感覚。それは,まるで死から甦ったような感動でした!先生が指を使ってしていることは,私の手の上を走りぬける冷たい何かを意味しているのであり,こうした記号を使えば私も人に意志を伝えることができるのだということを,私は理解したのです。それは,けっして忘れることのできないすばらしい1日でした!」(本書185頁)



この体験を経て,ヘレン・ケラーは,自分の障がいに立ち向かえるだけの強さを感じたということなので,この体験は,ヘレン・ケラーが言うように啓示的な性質を帯びた体験だったのだなと思います。

ただ,この体験だけでは,世界各地を回って講演活動をしたり,社会福祉活動をしたりする原動力までは生み出されなかったと思います。

やはりヘレン・ケラーにとって,スウェーデンボルグの著書との出会いが本当の転機であったのだと思います。

「スウェーデンボルグのメッセージが私に解き明かされたとき,もうひとつ別の貴重な贈り物が人生に付け加えられたのです。そのときの自分の感情を言葉にしてみるなら,それはあたかも光のなかったところに光がさし,漠然とした世界が燦然たる確実性を帯びてきた,といった感じでした。私の心の地平線は,競争や闘いが依然として激しい,華やかな運命へと押し広げられたのです。」(本書187頁)

   

ヘレン・ケラーの精神世界に触れることができる本として,本書をオススメ致します(^ ^)


2015.03.15 01:31|思索
前回の記事で動機の重要性について書きましたが,人を裁く刑事裁判においても,動機は重視されるべきですよね。

同じ罪を犯した場合でも,その動機しだいでは,霊界での評価は全く変わってくると思います。

その点,実際の刑事裁判はどうかというと,動機が重視されるようなケースは確かにありますが,動機によって,刑の重さが大きく変わってくるということは,それほど多くないという印象です。

たとえば,コンビニに強盗に入り,店員に怪我を負わせたという強盗致傷事件を例にすると,被害金額がどれくらいか,被害者に対してどういう暴力や脅迫をしたのか,被害者の人数は何人か,被害者の怪我の程度はどれくらいか,被害者との間で示談が成立しているか,被告人に前科があるか,といった客観的な要素によって,刑の重さは大体決まってきます。

被告人の動機について言及する裁判例も,もちろんありますが,多くは,「自分勝手」「短絡的である」と簡単に切り捨てられていて,裁判官も動機についてあまり深くは検討していないことが窺われます。

私が担当した刑事事件でも,被告人にはこのような同情すべき動機があると私の方で色々と主張したのに,「短絡的犯行であり,酌むべき点はない。」とばっさりと動機の点を切り捨てられてしまったものがありました(>_<)

被告人が生活に困ってやむなく強盗に及んだというケースなどでは,被告人に結構有利になるのではとも思えますが,実際にはそれほど有利にはなりません。

たとえば,コンビニ強盗事件で,被告人の動機について言及する裁判例として,以下のものがあります。

「本件犯行の動機は,被告人が本件犯行の3日前から何も食べておらず,空腹に耐えきれなくなり,コンビニで現金や食べ物を奪おうとしたものであるが,被告人のこのような状況は・・・(省略)・・・自ら招いたものといわざるを得ないし,このような状況になっても,知人等に援助を申し込むなど他の手段は考えられるのに,それをせずに本件犯行に及んだことは,同情することはできず,この点は検察官の主張するとおり,被告人の刑を重くする事情である。」(仙台地裁平成22年6月4日)



この判例では,動機について被告人の刑を重くする事情であるとしていますが,被告人が被害者に対して何度も包丁を突きつけた点などの行為の危険性を重視すべきであると述べられているので,動機は,一つの判断要素くらいの位置付けしかなかったと思います。

このように,刑事裁判においては,動機よりも,結果の重大性,行為の悪質性が重視されている気がします。

動機を重視するシルバーバーチ的観点からすれば,この判断枠組みはどうなんだとも思えますが,これは仕方のないところではあると思います。

というのも,被告人の動機のような主観的な部分については,本当のところはよく分からないという事案も少なくないからです。

客観的な証拠から,被告人の動機はこのあたりにあったのではと推測することはできますが,真の動機を確実に証明する手段は現世では存在しないと思います。

そうなると,動機だけを重視して,被告人の刑の重さを判断するということは,かなり危険というか,不確実な根拠に基づいた判断になりかねないと思います。

また,結果とか犯罪行為自体は同じような事件なのに,動機の違いだけで,刑の重さが全く違ってくるということになると,どうしても不公平感を拭えなくなり(霊界からみたら不公平でも何でもないですが),被告人も納得しないし,国民の理解も得られない気がします。

なので,現世の刑事裁判制度としては,現状のような判断の仕方でしょうがないのかなと思っています。

ただ,何で罪を犯したのかというのを深く考えることは,被告人の更生にとってすごく重要なことなので,被告人と何度も面会するなかで,「何でこんなことしたんですか??」ということは,視点を変えて繰り返し聞くようにしています。

最初は,被告人も心を閉ざしている場合が多いので,「別に深く考えてやったわけじゃないし・・・。」などと言って,あまり語ろうとしません。

けれど,足繁く被告人に会いに行って,被告人との信頼関係が出来てくると,「実は・・・」といった感じで,犯罪に及んだ経緯を詳しく話してくれるようになることが多いです。

私としては,裁判で重視されるかどうかとは関係なく,被告人の真の動機に迫っていって,そこから被告人の更生の糸口を見つけ出し,1人でも多くの被告人に更生してもらいたいと願っています(^ ^)


2015.03.07 00:44|思索
シルバーバーチは,動機の重要性を繰り返し述べています。

「求めるものが正しいか間違っているかは,単なる人間的用語の問題にすぎません。私たちからみて大切なのは“動機”です。いかなる要求をするにせよ,いかなる祈りをするにせよ,私たちが第一に考慮するのはその動機なのです。動機さえ真摯であれば,つまりその要求が人のために役立つことであり,理想に燃え,自分への利益を忘れた無視の行為であれば,けっして無視されることはありません。」(『シルバー・バーチの霊訓(六)』P55(潮文社))



人の役に立ちたいという真摯な動機のもと,自分なりの努力をしていれば,仮にそれがよい結果に終わらなかったとしても,その行為は評価されると思います。

ただ,動機さえ正しければ,結果がどうなってもいい,ということでもないと思います。

それは,結果に無関心であれば,その動機自体が真摯なものかどうか,疑わしくなる気がするからです。

たとえば,極端な例ですが,自分は人の役に立ちたいとは思ってるけれど,結果がどうなっても関係ない,つまり,実際にその人の役に立てたかとか,その人を救えたかとかはどうでもいい,と考えていたら,それは真摯な動機とはいえないと思うのです。

人の役に立ちたいという動機の中には,結果としてその人を助けたい,救いたいという気持ちがあるはずで,そういう結果を求める部分がなければ,人の役に立ちたいという熱意や情熱があるのか疑わしくなる気がします。

なので,結果を求めることは,動機の一部を形成しているというか,結果を求めることと動機とは不可分の関係にあると思います。

シルバーバーチが言っているのも,結果を求めた末に,結果が出なかった場合,たとえば,その人が抱えている困難や苦難を実際解決することが出来なかったとしても,そこを思い悩む必要はないという趣旨だと思います。

ただ,そう考えると,結果を求める過程で,「結果が出なくても,まあ仕方ない。」という気持ちが出てしまう気がします。

結果が出ても出なくても,結局,動機さえ真摯なものであれば,評価としては変わらないということであれば,結果へのこだわりは薄れると思うのです。

結果へのこだわりが薄れれば,結果を求める情熱や理想もしぼんでいく気がします。

自分は人の役に立ちたいと思って,頑張ってるんだから,結果がでなくても,つまり,実際上その人が救われなくても,まあしょうがないよね,と考えてしまうと,人の役に立つためにベストを尽くせなくなってしまうと思います。

シルバーバーチがいうように,大切なのは動機だと思いますし,霊界における評価も動機に尽きると思いますが,それはあくまで事後的に評価する観点から見たものだと思います。

現世を生きていくうえでの心構えとしては,結果を求める情熱や理想,結果へのこだわりがあっていい気がします。

というか,もしかしたら,シルバーバーチが言っている「真摯な動機」には,そういった結果を求める情熱も含まれているということですかね。

だとすると,結果を求める情熱や理想をどれだけ持っているかというのも,「真摯な動機」といえるかどうかの判断要素になっているんですかね。

何かよく分からなくなってきましたが,結果を追い求める強い意欲,モチベーションは重要な気がします。

ただ,結果を追い求めすぎると,結果が出なかったとき,つまり,目の前の人を救えなかったというとき,ショックを受けるというか,取り越し苦労をしてしまうと思います。

そこで切り替えが出来ればいいですが,なかなか出来ないですね(>_<)

最後にまとめると,「真摯な動機を持つ」⇒「結果を求めて最大限の努力をする」⇒「結果に一喜一憂しない」というのがいい気がします(^ ^)



02 | 2015/03 | 04
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
プロフィール

spilaw

Author:spilaw
性別:男性
年齢:30代
職業:弁護士
座右の書:『シルバー・バーチの霊訓』

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

カテゴリ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR